快走じじいの回想録

北の大地、南の島 旅の思い出をゆる~く。・・・時々今

ぼろぼろの近畿編 6日目 2/2

梅雨空に祟られて「身も心もぼろぼろ」になることを承知で6月6日に発進した東海・近畿の車旅。

 

旅の轍

 

6月11日 旅に出て6日目の続きです。

 

観音寺城に向かいます。

観音寺城へは、観音正寺の境内を通って行く登城路が一般的の様ですが、観音正寺に行く参道にも表参道と裏参道があり表参道はPから石段を上がるのに対して裏参道は緩い坂道で到着できるとこのブログを纏めていて知った。すでに時遅し、じじいは表参道から登城。 観音正寺に到達する頃にはすでにへとへと。

観音正寺表参道P

ここに登ってくる林道が有料で600円。

なになに? 観音寺城見学も含めて「入山料」を頂戴しますだと!

すでにここへ来るまでの林道が有料なのにさらに金を要求されるとは。

環境維持と管理の為ならしょうがないか。 ぶつぶつ。仏仏。ブツブツ。

※有料林道の領収書らしきものには、「繖山林道景観整備協力金」きぬがさ山管理組合とある。 領収書と記載しない点が ぶつぶつ。仏仏。ブツブツ。

 

表参道入口「杖」が用意されているという事はかなりきつい?石段と予想されるが、見事にビンゴ!

先が見えぬほど延々と続く石段。

パチリでは分かりにくいが手すりのところどころに木札がさがり蘊蓄のある一言が書いてある。これを読みながら歩いているように見せかけて本当は足が、足が前に出ん。後から来たのに~追い越され~(水戸黄門の節で)

終わりはまだか? は~は~ぜ~ぜ~

もう登城する元気も残っとらん。

こんな木札が30枚程ぶら下がっていたような。ようやく最後の石段に。

案内板を読むが、例によって頭に残らん。

観音寺城

・標高 433mの繖山(キヌガサヤマ)にあった佐々木六角氏の居城

・六角氏は鎌倉時代初期から戦国時代にかけて近江一帯の守護を務めた名門

安土城以前の1530年から1550年代にかけて石垣が多用され六角氏の居城として整備された本格山城だが、永禄11年(1568)に信長に攻められ戦わずに逃亡し城はあっけなく開城。その後安土城の完成とともに城としての役目を終えた。

安土城の石垣の石は、ここの石も使われたとか。

 

仁王像の間を通って

入山受付へ

じじいが観音寺城に登城すると言ったら、受付のお姉さんが大変詳しく説明してくれた。しかもじじいが帰りは大石垣から搦手道を下りようと思っていると話すと、コロナの関係で搦手道の整備が出来ていないので必ず引き返すように念を押された。

旗の立っている所が大石垣だと教えてもくれた。

しかも、ここの休憩所にも名城スタンプが置いてあるとの事。事前情報では得られなかったのでスタンプ帳は車の中。あの石段をもう一度上がり下りはしたくないので、残念ながら観音寺城の名城スタンプは、安土城郭資料館で貰う事にした。

名城スタンプが置いてあった休息所。

せっかくだから、聖徳太子像や本堂にお参りして

ここが、観音寺城への登城口

本丸跡

平井丸跡

池田丸跡

登城口(入口)からここまではほぼ平坦な道

池田丸から大石垣への道は下り坂で足場の悪い箇所も。

大石垣に到達

大石垣だなんて言って、大石がごろごろしているだけじゃないか。

まさか、大地震か何かで崩れ去ったのか?などと、己の知識の無さを棚に上げて付近をぶ~らぶら。

受付のお姉さんに、あれほど行くなと言われた搦手道を確かめたくて山道がさらに続いていたので進んでみたら、

なんと!

何と!

な~んと!

今歩いてきた足元が大石垣でした。

大石垣の前に回り込む道もありました。

大石垣 納得です。

結局搦手道は分からず。

大石垣からの眺めを堪能し、さて帰るかと腰を上げた時に目に飛び込んできたのが

願い事を書き込んだ木札。よく見ればあちらこちらにぶら下がっていた。

中学生でしょうか?ほとんどはクラブ活動や友達、家族に関する願い事だったが、

その中にガーンと頭を殴られたようなような衝撃が走る一枚が。

強く 生きる。

どうですか皆さん。中学生で「強く生きる」。

じじいは、中学生の頃はもちろん、今でも「強く生きる」。頭に浮かんできません。せいぜい「無事に名城巡りが完結しますように」程度です。

この子に完敗です。

 

 

入山受付でお姉さんに無事帰って来たよ。と挨拶し山を下ります。

観音寺境内の登城口からの往復時間 休憩時間も含めて 1時間15分 

 

帰りに有料林道の途中にある搦手道の登り口をパチリ。 かなりの傾斜。登るのはまっぴらごめんなすって。

 

次に豊臣秀次の居城 八幡山城に向かいます。

観音寺城までは降っていなかった雨が、八幡山城に近づくにつれ降り出して激しくなってきた。まるで叔父秀吉に翻弄された秀次の悔涙のような。

 

八幡山城へはロープウーで。 往復890円でした。

登ります。

山頂に到着

名城スタンプは、山頂駅で貰いました。

時計回りに、西の丸跡→北の丸跡→本丸跡(山門、瑞龍寺)→二の丸跡と周る。

紫陽花がきれい。

西の丸跡

晴れてれば、

でも実際は。

本丸石垣

北の丸跡へ

左が安土山、右が観音寺城の繖山

晴れていれば、

本丸跡に向かいます。

お参り。 ナムナム。

八幡山城

・標高272mの八幡山にあった城

豊臣秀次天正13年(1585)に築城を開始し、入城 この時18歳

・築城と同時に安土城の城下町もここに引っ越しさせて、近江八幡市の元となる城下町を造る。

天正18年(1590)秀次 尾張清州城に移封、代って京極高次が入城。

・文禄4年(1595)秀次切腹の後、廃城となる。

・秀次は秀吉の姉ともの子として生まれ世継ぎに恵まれない秀吉の養子となり関白職を継いだが、秀頼が生まれると我が子に継がせたい秀吉の思いで関係がぎくしゃくし、高野山に出家させられて文禄4年(1595)切腹させられた。

・昭和38年(1963)京都から本丸跡に秀次の菩提寺 村雲御所瑞龍寺が移築された。

 

瑞龍寺本堂脇で飼われていた亀(秀次とは関係なし、住職の趣味と思われる)

二ノ丸跡へ 今は展望台が建っている。

恋人たちの聖地。

 

ロープウーの乗車時間も含めて往復 1時間でした。

雨だったし、出丸跡には立ち寄らなかったしな。

 

下城し、

スーパーセンタートライアルで食料を調達し

銭湯 いこいの湯

観音寺城登城の汗を流し。

番台のお母さんが、若い頃はずいぶん男どもが騒いだんだろうなと思うほどの美形、思わずパチリいいですか?と聞けば、やんわり断られました。残念。

道の駅 草津に到着 今日はこちらにお世話になります。

この旅初めての梅雨らしい しとしと雨です。

  雨  雨  あめ

あ~やっちまった!

 

じじいの旅車の電源は、屋根に200W(100W×2)のソーラーパネルを載せてサブバッテリーの充電はソーラーパネルをメインに行っているんですが、この日は。

午前中は、曇り空。

午後から雨

という事は、・・・ソーラーパネルでの充電が全くできていないという事。

そういう場合に備えて走行充電も可能なように組んであるのですが、走行充電は手動でスイッチを入れないとならないのに、すっかり忘れていました。

しょうがないから道の駅で、アイドリング状態で充電。

 

充電している間に夕食の仕込み。

きゅうり、人参、キャベツを刻んで浅漬けを作りました。

 

今日の走行距離 60km 累積 802km

明日は、二条城に向かう。

 

最後までお付き合いありがとうございました。

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では、また次回にお会いしましょう。

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