快走じじいの回想録

北の大地、南の島 旅の思い出をゆる~く。・・・時々今

ぼろぼろの近畿編 5日目 1/2

梅雨空に祟られて「身も心もぼろぼろ」になることを承知で6月6日に発進した東海・近畿の車旅。

 

旅の轍

 

2022年6月10日 道の駅 池田温泉で5日目の朝を迎えました。

左へ曲がって関ヶ原

 

6:40 関ヶ原 決戦地へ到着

時間が早すぎるって? 歳をとると誰でも朝が早くなるの。ましてや車旅の最中は寝るのも早くなるので、結果朝も早くなる。 これの繰り返し。

 

西軍は二人のKの裏切りで負けた。

 

誰でも「関ヶ原の合戦」はご存じだと思います。映画でも大河ドラマでも繰り返し描かれていますからね。

そんなドラマの中で描かれたドラマチックな出来事、例えば徳川方に与すると内応していた小早川秀秋、いつまでたっても兵を動かさないので怒った家康が秀秋の陣めがけて鉄砲を放った。というお話。でも近年の歴史研究では、実際には無かったのでは。とか。秀秋は開戦時から東軍として参戦していた。とか。 何しろ残っている資料のほとんどが後世に書かれた2次資料なので本当の所はこれからの研究を待たねばならないようです。ひょっとすると あ! と驚くような史実が発見されるかもね。

 

従来の合戦の話に沿って。開戦から順を追って。

西軍の勢力 8万2千余(大垣城の守備隊およそ7千含む)

東軍の勢力 7万4千余

関ヶ原に集結した勢力で見ればほぼ互角。

でも布陣態勢で言うと西軍が有利。

・・・と言う事は、三成はかなり前からここ関ヶ原が合戦場所になる。と考えて準備していたという事。それほど東国から京、大阪に向かう場合に避けて通れない場所と言える。現代でも新幹線、名神高速が走っているぐらいだからね。

 

両軍の布陣図

この布陣を見れば、南宮山(図の右側中央)に西軍の毛利秀元他が陣取っているので、徳川本陣が西軍側にかなり深く入りこんでいるような。ひょっとして家康は南宮山に陣取る毛利勢は動かないと知っていたかのような。

 

開戦地

開戦

慶長5年(1600)旧暦 9月15日 午前8時頃 井伊直政福島正則に先を越されてなるものかと宇喜多秀家の陣めがけて銃撃。天下分け目の合戦の火ぶたが切って落とされた。

両軍 一進一退の戦が続く。

 

午前11時頃、家康は戦況が良く見えないと本陣を前に動かす。

ほんとかよ? 大将自らが最前線かよ。ひょっとして家康の影武者か?

でも、大将が前線に出てくれば東軍の士気も大いに盛上がったろうね。

 

待っても待っても動く気配のない小早川秀秋に業を煮やした家康

家康:「秀秋の陣に鉄砲を撃ち込め!」

 

「ダ~~~ン」「ダダ~~~ン」

 

秀秋:「家康様が怒っている!」あたふた、あたふた、どうすれば?

    この時秀秋 若干19歳

家臣:「殿 お下知を」

秀秋:「攻めるぞ!」

家臣:「攻めるって誰を!」

秀秋:「敵じゃ!」

家臣:「敵って? ・・・ 三成ですな。」

秀秋:「総攻撃じゃ 突っ込め~」

松尾山を駆け下り大谷吉継勢に襲い掛かる。

小早川秀秋肖像画

秀秋の裏切りをうすうす感ずいていた吉継、小早川勢に対して善戦するが兵力差はどうしようもなく追い詰められ、東軍有利と見た脇坂安治らにも裏切られ、もはやこれまでと自刃して果てる。

大谷吉継の墓

高低差はさほど無い山道を10分ほど歩くが迷う事は無い。

吉継の墓への入り口            途中の山道

戦いは、笹尾山に陣取る三成の目と鼻の先の地(決戦地)で繰り広げられたが、西軍として開戦時から戦いに参加していたのは、石田三成隊、宇喜多秀家隊、小西行長隊、大谷吉継隊などで秀秋の裏切りで大谷隊が壊滅すると西軍は総崩れとなり、午後4時頃家康の追撃停止命令で終わった。

その間南宮山の毛利秀元の毛利勢はどうしていたかというと、家康に内応していた吉川広家が毛利隊の前列で全く動かず、動かない事で毛利秀元安国寺恵瓊を縛り付けていた。 関ヶ原 最大の裏切り者との評もあるが、主家 毛利家の安泰を願えばこその裏切り。一説によると西軍の総大将毛利輝元も家康と大坂城を出ない代わりに毛利家の安泰という密約を結んでいたとか。だが、その願いも家康に裏切られて、中国の覇者毛利家は周防、長門2か国(長州藩)30万石に減封された。

普通だったら、いくら周りから担がれたとは言え敵の大将は首をはねられて当然なんだけどね。家康の側近が約束(密約)を反故にするのはいかがなものか?と諫めたのかもね。

吉川広家肖像画

 

西軍として参加していた島津義弘は、最初から戦に加わらず敵味方関係なく近寄る者を追い払い最後は家康の本陣めがけて中央突破で逃げ延びた。

 

徳川の世になってから260余年後、毛利(長州)と島津(薩摩)により徳川幕府に終止符を打たれようとはさすがの家康も夢にも思ってはいなかっただろうね。

 

 

 

左側の小さく幟が立っているあたりが笹尾山 石田三成、三成の重臣(社長待遇) 島左近の陣跡

現在は水田が広がる決戦地

決戦があったのは旧暦9月15日、西暦に直すと10月21日

当時も稲作を行っていたとすれば、う~~ん 刈り入れ直前か刈り取った後か。というタイミング。戦で泣くのはいつの時代でも民衆。

 

 

そんなこんなを教えてくれる関ケ原古戦場記念館

絶対にお勧めなのが、要予約の「映像展示:グランドビジョンとシアター」 パチリはここまで。この先はパチリ禁止、無理やりパチリしようとすると係りのお姉さんが「困ります、後で私が叱られます」と必死に制止。

 

他にもいろいろな展示物や体験コーナーもあって観ていて飽きない。

ここも含めて、関ヶ原を見学するなら最低でも1日は欲しい。これ実感。

レンタサイクルやガイドも頼める。

 

 

関ヶ原に参加していない武将たちはどこで、何をしていたか?

五奉行のひとり 上杉景勝、仙台の伊達政宗加藤清正真田昌幸・信繁など

上杉景勝 背後に伊達政宗、最上義明が睨みを効かせていて動けず。(動く気も無かったかも?)

加藤清正 息子長政に家督を譲った黒田如才(官兵衛)と共に九州の西軍派の武将たちを平定 黒田如才の本当の狙いは、天下取り? 息子の黒田長政小早川秀秋吉川広家などを内応させた手柄で家康から手を取って感謝されたことを得意げに話した時、「その時お前の左手はどうしていた」と言ったという話は有名。

真田昌幸・信繁親子 信州上田で徳川秀忠の軍勢を釘付けにし関ヶ原に遅参させた。

 

主な武将の関ヶ原

小早川秀秋 筑前36万石から備前岡山51万石に加増されたが関ヶ原の合戦から2年後の慶長7年 改易(本人死亡だったかな) (改易:身分はく奪、領地没収)

 

吉川広家 岩国領を拝領するも毛利家の中では「裏切り者」として不遇の後世を過ごす。毛利家の安泰どころか大幅な減封に身内から逆恨みを受けたか?

 

福島正則 尾張清州20万石から安芸広島50万石に加増。

 

上杉景勝 会津120万石から米沢30万石へ減封

 

真田昌幸・信繁 高野山に幽閉 昌幸はこの地で亡くなる。信繁のその後は「真田丸」で。

 

ふ~~~。 ここまでで疲れちゃった。

予定を変更して今日はここまで。

 

最後までお付き合いありがとうございました。

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では、また次回にお会いしましょう。

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