あったてんがの
これは、2015年に西日本を怒涛の如く一周した時の思い出話です。(古!(^^♪)
今日は、大和ミュージアム、錦帯橋を経て道の駅ソレーネ周南まで
5月20日 日本一周 怒涛の西日本編 8日目
道の駅たけはらで朝を迎えました。
海岸沿いを西へ向かいます。
途中小島(大芝島)があり橋が架かっていたのでちょっと寄り道したらこんな案内板が
場所はここです。
7:50 どうですか?ハート形に見えますか?
玄関脇に展示の戦艦陸奥の主砲身やスクリュ
戦艦大和の1/10模型 残っている図面などを基に可能な限り忠実に再現。
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起工 1937年 11月 4日 進水 1940年 8月 8日
全長 263.8m 全幅 38.9m
排水量 64,000トン 主砲 46cm砲 3連 3基
乗員 3,332名
昭和 20年 4月 7日 坊の岬沖で米機動部隊の攻撃を受けて沈没
戦死 2,740名 生存 269名
※ウィキペディアより
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戦艦の建造は、戦後の造船業に、測距儀(敵艦との距離を測る装置)は、レンズに、短期間に建造する生産技術は、ジャストインタイムへと各々受け継がれ戦後の復興に大いに貢献したという。


零式艦上戦闘機六二型
栄三一甲型エンジン
中島飛行機開発・量産の航空機用エンジン、後継エンジンとして馬力アップした「誉型」エンジンが昭和16年に開発されその性能は当時の世界最高水準をゆくものであったが、当時の日本は熟練の組立工員・整備工の減少(戦争への招集)、使用油脂の戦時による枯渇などが災いして扱いにくいエンジンとして現場での評価は芳しくなく終わった。(参考:悲劇の発動機「誉」/前間孝則著 草思社 より)
特殊潜航艇「海龍」(量産型) 乗員2名で敵戦艦に接近し魚雷を発射し帰還
鉄のくじら 退役潜水艦を利用した資料館 大和ミュージアムの道を挟んだ向かい側にあり、もちろん内部の見学もOK、いや~トイレが狭いのなんのって。
15:15 錦帯橋に到着
甲斐の猿橋、黒部の愛本橋(現存せず)と併せて「日本三奇矯」の橋
(現存しない愛本橋の代わりに他の橋を入れて三奇矯とする意見もある)
岩国藩主3代 吉川広嘉が延宝2年(1674)に架けてから昭和25年(1950)の台風29号の洪水で壊れるまで都度の補修は当然ながら現役の橋として存続。
昭和28年(1953)市民の強い要望により再建された。
ちょっと前だが、ここをバイクで走り傷つけた「末代のバカ」がおったの~。
橋の中央から川上を
川下を
名前を覚えるだけでも大変そう。 「△%?Ωください」 あいよ。
槍倒しの松(やりこかしの松)
諸国の大名が他藩の領地を通る時は行列の槍を倒すのが礼儀、でも大藩が小藩の領地を通る時は礼儀を守らず槍を倒すことをせず通過した。これに憤慨した岩国藩の武士たちが横枝の張った松をわざと橋の頭に植えて大藩と言えども槍を倒さなければ通れないようにした。 昔の道は、川沿いにあり橋を渡るに松の下の石段を登らざるを得ず槍を倒して通った。(※説明看板より)・・・岩国武士あっぱれ!。
岩国城 初代岩国藩主 吉川広家が慶長13年(1608)に築城したが、幕府の一国一城令で元和元年(1615)に取り壊された。現在の天守は昭和37年(1962)に錦帯橋からよく見える場所にと本来の場所から50mほど移動して建てられた外観復元天守。
復元という事は、絵図面が残っておったという事じゃの~ あっぱれ!
(コンデジのズームなので画質は・・・・・)
18:35 道の駅ソレーネ周南 今日は、こちらにお世話になります。m(__)m
本日の走行距離 235km
『ああ おとうとよ 君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや』
(詩 与謝野晶子)
浮沈艦と言われた戦艦大和で出撃し戦死された乗組員の親・兄弟の気持ちを考えるとこの詩に落ち着きました。「海ゆかば」も浮かんだのですが、親・兄弟の気持ちでは無いかなと。
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